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2009.8.07
心の核のこと
死と誕生の瞬間
かねがね思ってきたことなのですが、「死」というのは「誕生の瞬間」にまで戻ることではないでしょうか。この考えは証明されているわけではありませんからあくまで暗喩として言うしかありません。「死」がもしもそのようなものならば、多くの人が生まれて、そして無言のままに死んでいく秩序もわかるような気がします。誕生の瞬間を記憶していないように死の瞬間も記憶していないというふうに。
吉本隆明の「母型論」も暗喩としてしか書かれていませんが、私風にまとめてみると、以上のようになります。
母胎から外界に出る瞬間、死に等しい衝撃を味わうことになる私たちは、人生の物語の段階を無意識のうちに経験することになります。母と一心同体だった胎児は、母と離れる事態となります。これが衝撃です。 次に乳児の無意識には 「なぜ自分はこんな不安なところに出てきてしまったのか」 という憤りや悔いがやってきます。嘆きがきます。泣きちらすというのはたんに栄養補給がほしいというからだけでもないはずです。
そして「もう一度母親との親和の接触を与えてくれたら、生まれた状態をOKしてもいい」というような取引が起こり、やがてこんな憂鬱な感じが続くのだろうかと思いながらも諦めが、つまり受容がきます。この世にいることを受け入れ、母胎には戻れないという「あきらめ」をもちます。
実は、これは私たちが突然,病気で死の宣告をうけた時にやってくる「死」までの段階と同じです。
病気を宣告される衝撃があります。そんなはずはない、私に限って、間違いではないか、と否認がきます。別の病院に再検査にいく人もいます。そして嘆きます。次に命を引きのばしてほしい、そのためには今度からこうする、ああする、と神のようなものに、あるいは自分と取引をする。最後に受容、あきらめがやってきます。
この「遡り」のことは別の視点からも言うことができます。森山公夫の「統合失調症」の症例の中に、患者が自分でなずけている言葉があります。これは幻声のことです。
意語(患者が作った言葉) 頭の中に音声のイメージをともなった言葉の意識が上っ てくることで、耳に聞こえてくるわけではない。
(意味をもちつつある時の言語の前初期の感じがする)
舌語 自分の口が自然に開いて声になるもので、それにより相手の言うことがわかる。
(乳幼児のあわわ言葉ににている。言語発生直前なのか)
分裂症の患者はが言葉を発生させるスレスレのところまで遡っていることを示すのではないか、と私は思ってしまいます。
胎児が乳児に転化する瞬間は次元が異なってしまう瞬間です。エラ呼吸的だったのが肺呼吸になります。肺をとりまく神経もできあがっています。
それまでは母の羊水の中で、母が思うことは自分にも直接刷り込まれて一心同体のようなものでした。それが乳児になったとたん引き離される」ことになります。この時期の体験やすごし方、かまわれ方、育てられ方が、永久に刻印されます。
この胎児から乳児に転化する時の乳児を構造的に調べてみる必要があります。おそらくこのことがわかれば、「私」はどの辺のところに「存在」するのかがわかるはずです。(この稿つづく)
かねがね思ってきたことなのですが、「死」というのは「誕生の瞬間」にまで戻ることではないでしょうか。この考えは証明されているわけではありませんからあくまで暗喩として言うしかありません。「死」がもしもそのようなものならば、多くの人が生まれて、そして無言のままに死んでいく秩序もわかるような気がします。誕生の瞬間を記憶していないように死の瞬間も記憶していないというふうに。
吉本隆明の「母型論」も暗喩としてしか書かれていませんが、私風にまとめてみると、以上のようになります。
母胎から外界に出る瞬間、死に等しい衝撃を味わうことになる私たちは、人生の物語の段階を無意識のうちに経験することになります。母と一心同体だった胎児は、母と離れる事態となります。これが衝撃です。 次に乳児の無意識には 「なぜ自分はこんな不安なところに出てきてしまったのか」 という憤りや悔いがやってきます。嘆きがきます。泣きちらすというのはたんに栄養補給がほしいというからだけでもないはずです。
そして「もう一度母親との親和の接触を与えてくれたら、生まれた状態をOKしてもいい」というような取引が起こり、やがてこんな憂鬱な感じが続くのだろうかと思いながらも諦めが、つまり受容がきます。この世にいることを受け入れ、母胎には戻れないという「あきらめ」をもちます。
実は、これは私たちが突然,病気で死の宣告をうけた時にやってくる「死」までの段階と同じです。
病気を宣告される衝撃があります。そんなはずはない、私に限って、間違いではないか、と否認がきます。別の病院に再検査にいく人もいます。そして嘆きます。次に命を引きのばしてほしい、そのためには今度からこうする、ああする、と神のようなものに、あるいは自分と取引をする。最後に受容、あきらめがやってきます。
この「遡り」のことは別の視点からも言うことができます。森山公夫の「統合失調症」の症例の中に、患者が自分でなずけている言葉があります。これは幻声のことです。
意語(患者が作った言葉) 頭の中に音声のイメージをともなった言葉の意識が上っ てくることで、耳に聞こえてくるわけではない。
(意味をもちつつある時の言語の前初期の感じがする)
舌語 自分の口が自然に開いて声になるもので、それにより相手の言うことがわかる。
(乳幼児のあわわ言葉ににている。言語発生直前なのか)
分裂症の患者はが言葉を発生させるスレスレのところまで遡っていることを示すのではないか、と私は思ってしまいます。
胎児が乳児に転化する瞬間は次元が異なってしまう瞬間です。エラ呼吸的だったのが肺呼吸になります。肺をとりまく神経もできあがっています。
それまでは母の羊水の中で、母が思うことは自分にも直接刷り込まれて一心同体のようなものでした。それが乳児になったとたん引き離される」ことになります。この時期の体験やすごし方、かまわれ方、育てられ方が、永久に刻印されます。
この胎児から乳児に転化する時の乳児を構造的に調べてみる必要があります。おそらくこのことがわかれば、「私」はどの辺のところに「存在」するのかがわかるはずです。(この稿つづく)
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